正論との向き合い方について
正論は最もらしい意見であり、多くの人が納得します。しかし、中には「正しいと頭では理解できるけど、納得できない」と悩む人もいます。その一方で、正論を説く側の中にも「正しいことを言ってるのに、相手を傷つけてしまう」と頭を抱える人もいます。
正論は正しいことであるにもかかわらず、なぜか受け入れられないというパラドックスを抱えているのです。
今回は正論について、以下の3項目に絞ってお話したいと思います。
- 正論の抱えるパラドックスの正体
- 説く側の正論との向き合い方
- 説かれる側の正論との向き合い方
※なお、本記事の示す正論は理想論と明確に区別します。*1
目次
1.正論が抱えるパラドックスについて
正論が受け入れられない理由としてよく挙げられるのが、「感情をないがしろにしているから」というものです。
確かに人間が物事を判断する際には、理性より感情が優先されるケースが多いです。「頭では理解できるけど、なんかモヤモヤして納得できない」現象がそのケースに該当します。*2
故に正論をテーマにした多くの記事では、「正論を述べる時は、相手のことをよく考えてからにしましょう」といった趣旨の内容で閉めているものが多いです。しかし、「なぜそのような現象が起こるのか」まで掘り下げているものは(私の知る限りでは)、見当たりませんでした。
「感情をないがしろにしている」と感じるメカニズムが分からなければ、「正論を述べる時は、相手のことをよく考えてからにしましょう」と言われても、「どういった相手に」「何をよく考えれば良いか」見当もつきません。分からなければ当然、改善のためのアクションも起こせません。従って、正論で相手を傷つけてしまう癖を直したい方は、そのメカニズムについて把握する必要があるのです。
ここからは私個人の見解をベースにして、そのメカニズムについて論じていきたいと思います。
1-2.正論は強者のロジックである
ここで正論を説く側と説かれる側の立場について考えてみましょう。説かれる側が「感情をないがしろにしている」や「頭では分かっているけど、納得行かない」と感じるときは、そこに強者と弱者の関係が成りたっていると私は思っています。この関係が成り立つと、説かれる側(弱者)が納得できないと声をあげても、強者がその全てを正論で片付けてしまう現象が起こります。まさにこの瞬間に強者と弱者の間に齟齬(そご)が生じるのです。
このような齟齬は、強者が弱者の悩みに想像を膨らませていないからこそ、発生するのではないかと私は考えています。
1つ例を挙げましょう。皆さんは「退職代行サービス」についてご存知でしょうか。退職代行サービスは「辞めたいと思っている会社に対して、社員本人の代わりに退職代行業者が退職の手続きをする」というものです。
このサービスの是非について、ある実業家がこんなことを言っていました。
「サラリーマン一人いなくなったところで、会社は痛くも痒くもないのだから、辞めさせてくれないなら、バックレてしまえばいい。」「引き継ぎがどうこう言ってる日本人は真面目すぎる。」
他にも、「労働者には職業選択の自由があるわけだから、どうどうと辞めると言えばいい」といった意見も寄せられていました。
当時の私も(社会経験積んでいない愚か者ですが)、「そのようなサービス使う人は、次の会社でも同じことを繰り返す可能性が高いから、根本的な解決になっていない」と考えていたし、その人の意見も最もらしいと思っていました。
しかし、そのサービスがある程度需要があり、成り立っているのも事実でした。そこでそのサービスを使う人がどういった心境で利用に至るのかについて、想像を膨らましてみることにしました。するとあることに気付きます。それは先に挙げた最もらしい意見はどれも、強者だからこそ言えるものばかりなのではないか?というものです。
その実業家は生粋の経営者でしたし、私を含めた最もらしい意見を述べてる人は皆、「退職したいけど、なかなか上手く切り出せない...」といった経験をしていません。そもそも強者は、正面から「辞めます」と言える人達なので、そのサービスを使う発想すらないのです。
一方でそのサービスを使う人たち(弱者)も、強者の意見が正しいことだと頭では分かってるはずです。それでもそういった選択がとれない状況に追い込まれているからこそ、彼らは代行サービスを使うしかなかったのではないでしょうか?(実際そのサービスの発案者も、退職の際に苦しい経験をした方だったそうです)。ここに強者と弱者間の明確な齟齬があります。
とどのつまり、正論は強者のロジックであり、そのロジックは弱者には通用しないのです。
2.正論との向き合い方
では強者と弱者は、正論とどう向き合っていけば良いのでしょうか?ここでは正論との向き合い方について、両者の立場に分けて論じてみることにします。
2-1.正論を説く側(強者)の向き合い方
「齟齬をなくそう」という考えは間違い
正論を説かれる側(弱者)と向き合う際に、多くの人たちがやりがちなのが、「齟齬をなくそう」と正論についてより多く語り尽くすことです。確かに「正論で相手を傷つける癖をなんとかしたい」と気づいて、何とかしようとする姿勢は良いことだと思います。しかし、早急に「齟齬をなくそう」とするのはあまり得策とは言えません。理由は単純で、弱者が求めているのは正論以外の「何か」だからです。その何かは正論以外の解決策かもしれないですし、解決策を求めていない場合もあります。そもそも齟齬はそう簡単になくなるものではありません。
正論を説く前に、一緒に寄り道をしてみよう
ではどうすれば良いのか?私は本気人*3のある言葉でそのヒントを得ました。それは私がサークルで広報を担当してたとき、動画編集者がほしいという話になったときでした。
モラトリアム人間「動画編集者を上手く集めるためには、それを担当することの魅力、すなわちメリットについて説けば良いのでしょうか?」
本気人「んーそれも大事だけど、丸投げするんじゃなくて、一緒に動画編集に取り組んだ方が良いと思うよ。」
一緒に取り組む。この言葉に全てが語ってると思います。つまり、正論を説く前に、まずは「どうやって今ある課題を解決すれば良いか、一緒に考えようではないか」というスタンスが大切なのです。一緒に考えることで相手の立場に想像を膨らませることができるし、何より相手の持つ不安を和らげることができます。一緒に解決策を模索するうちに、相手が「あなたが最初に言った、正論に納得がいった」となる可能性もあるし、別の解決策を提示する場合だって十分ありえるのです。
この考え方は実際に、私の塾講師のアルバイトにも活きています。
間違えた問題に教える際、すぐには正解を教える前に、なぜその解答をしたのかを質問します。相手の考えについて耳を傾けた上で、「じゃあなんで間違えたのか、一緒に考えよう」と対話を促し、質問をさらに重ねます。するとそのうち、生徒は「あーだからこれが正解なのか」と納得します。ごくまれに「これも正解なんじゃないの?」と私も思いつかなかった別解を導くこともあります。
このように、正論を一生懸命に説く前に「一緒に考えて、寄り道に付き合う」ことを意識して取り組んでみてはいかがでしょうか。
3-2.正論を説かれる側(弱者)の向き合い方
結論から言うと、「頭では理解できるけど、納得いかない」という方は、正論を無理して飲みこむ必要はありません。
確かに正論は、「現実的に取れる手段の中の最適解」であることは事実です。しかし、多くの人は正論に行きつくまでの過程を知らなければ、それが最適解であると納得できません。
(過程を知らずに納得できる人がいたとすれば、その人は強者です。)
先人たちも、最初から最短距離(正論)を選んでいたわけではないでしょう。彼らはゴール(正論)に辿り着くまでに、寄り道をしながら前進していきました。
従って、弱者は無理して最短距離を選ぶ必要はないのです。寄り道をして失敗を繰り返せば、いつか正論を受け入れられるときが来るかもしれませんし、裏ゴール(別解)を見つける可能性だってあります。
正論を受け入れられない自分を、ダメな奴だと思う道理はないのです。
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*1:
理想論と正論の違い
そもそも議論は「現状の課題に対して、解決策を提示しより良い状態を目指す」という意義が前提としてあって、初めて成り立つものです。理想論は「現実の状況は考えに入れず、理想だけをいう意見や主張」であり、それを議論の引き合いに出すのはお門違いです。
一方、正論は「道理にかなった正しい意見や議論」と定義されています。
つまり、正論は議論における最適解と言い換えることができるのです。
*2:実際にこの「感情優位論」は、心理学や行動経済学など多くの分野で科学的に証明されています。(詳しくは「選択の科学」や「予想どおりに不合理」をご覧になって下さい。)
*3:一つのことに純粋に楽しみながら、本気で打ち込み続ける人のこと。詳しくは、以下の記事に載せています。